華と粋
いずれも稀勢の里の良く使う言葉だそうで。
(産経新聞連載より)
こゆきまるも華やかさとか、
時分の華(花)とか、
粋な身のこなしとか、
粋な人とか、
普通に会話にも使うことが多い。
今、生きることに精いっぱいでゆとりがないと、
華にも粋にも程遠くなってしまう。
稀勢の里、知れば知るほどイイ男だわ(*^_^*)
録画画像から、お気に入りのワンショット。

あと、大盃を口にした後の表情もすごく好き。
探して写メしなきゃ(^_^)v
※時分の華
世阿弥の言葉。
稀勢の里の心掛けていること、行っていることと一致しているように思われる。
故鳴戸親方も世阿弥の言葉を研究していたのかもしれない。
風姿花伝より。
少年前期(12〜13歳より)
12〜13歳の少年は、稚児の姿といい、声といい、それだけで幽玄を体現して美しい、と、この年代の少年には、最大級の賛辞を贈っています。しかし、それはその時だけの「時分の花」であり、本当の花ではない。だから、どんなにその時が良いからといって、生涯のことがそこで決まるわけではない、と警告もしています。
少年期の華やかな美しさに惑わされることなく、しっかり稽古することが肝心なのです。
青年期(24〜25歳の頃)
この頃には、声変わりも終わり、声も身体も一人前となり、若々しく上手に見えます。人々に誉めそやされ、時代の名人を相手にしても、新人の珍しさから勝つことさえある。新しいものは新鮮に映り、それだけで世間にもてはやされるのです。
そんな時に、本当に名人に勝ったと勘違いし、自分は達人であるかのように思い込むことを、世阿弥は「あさましきことなり」と、切り捨てています。
「されば、時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になお遠ざかる心なり。ただ、人ごとに、この時分の花に迷いて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すはこのころの事なり」(新人であることの珍しさによる人気を本当の人気と思い込むのは、「真実の花」には程遠い。そんなものはすぐに消えてしまうのに、それに気付かず、いい気になっていることほど、おろかなことはない。そういう時こそ、「初心」を忘れず、稽古に励まなければならない。)
自分を「まことの花」とするための準備は、「時分の花」が咲き誇っているうちにこそ、必要なのです。
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